Overview
イヌイットは、アラスカ、カナダ北部、グリーンランドを中心とする北極圏に暮らしてきた先住民族です。
「Inuit」は、イヌイット諸語で「人々」を意味する複数形です。一人の場合は「Inuk」、二人の場合は「Inuuk」と呼ばれます。
イヌイットは一つの国に暮らす単一の集団ではありません。地域によって、Iñupiat、Inuvialuit、Kalaallitなど異なる名称が使われ、言語、衣服、食文化、芸術、歴史にも地域差があります。
環北極圏のイヌイットを結ぶInuit Circumpolar Councilは、アラスカ、カナダ、グリーンランド、ロシアのチュコトカに暮らす約18万人を代表しています。
イヌイットは、雪と氷の中で暮らしてきた過去の人々ではありません。現在も北極圏の都市や町、沿岸集落で生活し、教育、行政、芸術、映画、環境研究、科学技術など、さまざまな分野で活動しています。
確認資料:Inuit Circumpolar Council
居住地と地域ごとの人々
アラスカ
アラスカ北部と北西部には、主にIñupiatと呼ばれる人々が暮らしています。
彼らの言語はIñupiaqと呼ばれ、北アラスカとスワード半島では方言や発音、語彙に違いがあります。
アラスカ南西部にはYup’ikやCup’ikなどの人々も暮らしています。彼らはイヌイットと近縁の言語・文化を持っていますが、民族的・言語学的には異なる人々です。
カナダ
カナダのイヌイットの故郷は「Inuit Nunangat」と呼ばれます。
この言葉は陸地だけでなく、海、水、氷、生き物を含む生活世界全体を表しています。Inuit Nunangatは、次の4地域から構成されています。
| 地域 | 場所 |
| Inuvialuit Settlement Region | ノースウエスト準州とユーコン北部 |
|---|---|
| Nunavut | カナダ北部の広大な準州 |
| Nunavik | ケベック州北部 |
| Nunatsiavut | ラブラドール北部 |
この4地域には51のコミュニティがあります。
カナダの2021年国勢調査では、70,545人がイヌイットであると回答し、その約69%がInuit Nunangatに居住していました。現在はオタワ、モントリオール、エドモントンなど、北極圏外の都市で暮らすイヌイットも増えています。
確認資料:Inuit Tapiriit Kanatami「Maps of Inuit Nunangat」
確認資料:Statistics Canada「2021 Census」
グリーンランド
グリーンランドは、現地の言葉でKalaallit Nunaatと呼ばれます。
グリーンランドのイヌイットは広くKalaallitと呼ばれますが、北部のInughuitや東部のIivitなど、地域ごとに異なる名称と言語的特徴があります。
グリーンランドではKalaallisutが公用語です。北部や東部では、地域独自のイヌイット諸語も話されています。
チュコトカ
ロシア極東部のチュコトカには、シベリア・ユピックなどの人々が暮らしています。
言語学上、Yupik諸語はInuit諸語とは異なる系統に分類されます。一方、Inuit Circumpolar Councilでは、チュコトカのYupikも環北極圏のイヌイット共同体を構成する人々として参加しています。
呼称について
かつて、イヌイットやユピックなどの人々をまとめて「Eskimo」と呼ぶことがありました。
この呼称は外部から付けられた植民地時代の名称であり、現在はカナダやグリーンランドをはじめ、多くの地域でInuit、Iñupiat、Yup’ik、Kalaallitなど、それぞれの人々が自ら使用する名称が優先されています。
アラスカでは歴史的な団体名や法律上の名称にEskimoが残る場合もありますが、日常的な総称としての使用は減少しています。
確認資料:Alaska Native Language Center「Inuit or Eskimo: Which Name to Use?」
歴史とルーツ
北極圏の古い人類史
人々は4,000年以上前から北米北極圏で暮らしていました。
考古学では、初期の北極圏住民をPaleo-Inuit、その後の文化の一部をDorset文化などの名称で分類しています。イヌイットの口承では、先に暮らしていた人々がTuniitとして語られることもあります。
これらの考古学上の名称は、現代の民族名とそのまま一致するものではありません。
Thule文化と現代のイヌイット
現代のイヌイットの直接的な祖先は、考古学でThule文化と呼ばれる人々です。
Thule文化はベーリング海峡周辺で発達し、およそ西暦1000年ごろからアラスカから東方へ広がりました。その後、カナダ北極圏を通り、数百年のうちにグリーンランドへ到達しています。
彼らは、大型の皮舟であるumiaq、一人乗りのqajaq、犬ぞり、銛などを利用し、クジラをはじめとする海洋動物を捕獲する高度な技術を持っていました。
地域によってはトナカイ、魚、鳥などの陸上・河川資源も利用し、それぞれの環境に合わせた生活文化を発展させました。
Dorset文化の人々とThule文化の人々の関係や、接触のあり方については、現在も研究が続いています。
確認資料:Parks Canada「Sirmilik National Park – History」
ヨーロッパ人との接触
地域によって時期は異なりますが、ヨーロッパの捕鯨船、探検家、宣教師、毛皮商人などが北極圏へ進出し、イヌイットとの接触が増えていきました。
交易によって金属製品や新しい道具が入る一方、感染症も広がりました。キリスト教の布教や学校教育、商業活動は、宗教、移動生活、家族関係、経済にも大きな変化をもたらしました。
20世紀の社会変化
20世紀には、多くの地域でイヌイットの家族が、それまでの季節的なキャンプから定住集落へ移動するようになりました。
カナダでは政府による移住政策、寄宿学校、家族の分離、南部の病院への長期移送、犬ぞり用の犬の殺処分などが行われた地域もあります。
これらの政策によって、家族、言語、移動、狩猟、地域社会のつながりが大きな影響を受けました。
ただし、すべての地域で同じ政策や出来事が起きたわけではなく、歴史的経験には地域差があります。
確認資料:Qikiqtani Inuit Association「Qikiqtani Truth Commission」
現代の地域社会
1977年にはInuit Circumpolar Councilの前身となる組織が設立され、国境を越えたイヌイットの連携が始まりました。
カナダでは1999年にNunavut準州が正式に発足しました。「Nunavut」はInuktutで「私たちの土地」を意味します。
現在、各地域のイヌイット組織や自治機関は、土地、文化遺産、教育、言語、自然環境などの管理に重要な役割を果たしています。
文化
陸・海・氷との関係
イヌイット文化は、陸地だけでなく、海、川、海氷、動物、天候、季節の変化と深く結びついています。
海氷は単なる凍った海ではありません。地域を結ぶ移動路であり、狩猟や漁、家族の訪問、知識の継承が行われる生活空間でもあります。
安全な氷の見分け方、風や雲の読み方、動物の移動、星を使った方向の確認など、多くの知識が世代を超えて伝えられてきました。
カナダでは、このようなイヌイットの知識、価値観、社会的な考え方がInuit Qaujimajatuqangitという言葉で表されることがあります。
食文化と分かち合い
イヌイット文化は、陸地だけでなく、海、川、海氷、動物、天候、季節の変化と深く結びついています。
食文化は地域によって異なり、アザラシ、セイウチ、クジラ、トナカイ、魚、鳥などが利用されてきました。
北極圏では植物性食品が得られる季節が限られているため、動物性食品は栄養面でも重要でした。捕獲した食料を家族や高齢者、地域の人々と分け合うことも、社会的に大切な習慣です。
現在は店舗で購入する食品と、地域で採取・捕獲されるcountry foodの両方が食生活を支えています。
イグルーと住居
イヌイット文化は、陸地だけでなく、海、川、海氷、動物、天候、季節の変化と深く結びついています。
英語の「igloo」は、イヌイット諸語の「iglu」に由来します。
Igluは雪の家だけを意味する言葉ではなく、多くの地域で家や建物全般を表します。雪のブロックで作る家は、より具体的にigluvigaqと呼ばれることがあります。
雪の家は、一部の地域で冬の移動や狩猟時の住居・一時的な避難場所として利用されました。
イヌイットの住居には、雪の家以外にも、皮のテント、石や芝土を使った半地下式の家などがありました。現在のイヌイットは、北極圏の町や集落にある木造住宅や集合住宅などで暮らしています。
確認資料:Inuit Circumpolar Council「Fun Facts」
移動と道具
Qajaqは、一人で操作する細長い皮張りの舟です。英語や日本語の「カヤック」という言葉は、このqajaqに由来します。
Umiaqは、人や犬、テント、道具などを運ぶ大型の皮舟として利用されました。
Qamutiikは犬に引かせるそりで、人や荷物を長距離運ぶことができました。現在はスノーモービル、モーターボート、航空機なども使われていますが、犬ぞり文化を継承・復興する活動も続いています。
Qulliqは、石で作られたランプです。海洋動物の脂を燃料にして、室内の照明、暖房、調理、衣服の乾燥などに利用されました。
衣服と裁縫
伝統的な衣服には、トナカイやアザラシなどの皮が使われました。
皮の種類、毛の方向、縫い目の位置まで考えて作られた衣服は、強い風や極低温の環境で体温を保つよう設計されています。
地域によって形や装飾には違いがあります。Amautiは、主にカナダ東部で見られる、乳幼児を背中側の袋に入れて運べる女性用の上着です。
Kamiikと呼ばれる皮のブーツにも地域ごとの形や縫製方法があります。
縫製技術は実用的な知識であると同時に、家族や地域の美意識を表す芸術でもあります。
芸術・音楽・物語
イヌイットの芸術には、石や骨、角、牙を使った彫刻、版画、ドローイング、織物、衣服、映像、写真、デジタルアートなどがあります。
動物、家族、狩猟、日常生活、変身物語、現代社会など、作品の題材も多様です。
イヌイット美術は、過去の生活を記録した民芸品だけではありません。現代のイヌイット作家たちは、都市生活、環境問題、家族、記憶、ユーモアなども作品に表現しています。
太鼓を使った歌や踊り、口承物語、喉歌なども地域文化の重要な一部です。
確認資料:WAG-Qaumajuq「Contemporary Inuit Art」
旗・シンボル
イヌイット全体の旗
すべてのイヌイットが共通して使用する一つの民族旗は、一般的には存在していません。
Nunavut、グリーンランド、Nunatsiavutなどは、それぞれ独自の旗や地域シンボルを持っています。また、Inuit Circumpolar Councilも独自のエンブレムを使用しています。
これらは特定の地域や組織を表すものであり、イヌイット全体を一つにまとめた国旗ではありません。
Nunavutの旗
Nunavut準州の旗は1999年に制定されました。
中央には赤いinuksuk、右上には青い北極星が描かれています。北極星は、旅の目印と高齢者の導きを象徴しています。
この旗はカナダのNunavut準州を表す旗であり、世界各地のイヌイット全体を表す旗ではありません。
カナダ・Nunavut準州の旗
Inuksuk
Inuksukは、石を組み合わせて作られた目印です。複数形はinuksuitです。
旅の方向、狩猟場所、危険な場所、食料の保管場所、特別な場所などを示すために使われてきました。形や意味は、地域や設置目的によって異なります。
現在よく見られる、人間の頭・腕・脚のような形をした石像は、より具体的にはinunnguaqと呼ばれます。すべてのinuksukが人型をしているわけではありません。
Qulliq
Qulliqは、光、暖かさ、食事、家族、共同体を象徴する存在でもあります。
Nunavutの紋章では、qulliqが家族と地域社会の光と暖かさを表しています。
Qajaqと犬ぞり
Qajaqや犬ぞりも、イヌイットの移動技術、海と氷に関する知識、地域間のつながりを表す文化的な象徴です。
言語
イヌイット諸語
イヌイット諸語は、Inuit–Yupik–Unangan語族に属します。以前はEskimo–Aleut語族という名称が広く使用されていました。
イヌイット諸語は、アラスカ北部からカナダ北極圏、グリーンランド東部まで連続して分布しています。
隣接する地域の言葉は比較的理解しやすい場合がありますが、地理的に離れた地域では発音や語彙の違いが大きく、すぐには理解できないこともあります。
Yupik諸語は同じ語族に属しますが、イヌイット諸語とは別の言語グループです。
確認資料:Alaska Native Language Archive「Inuit–Yupik–Unangan」
地域ごとの言語名
| 地域 | 主な言語・名称 |
| アラスカ北部 | Iñupiaq |
|---|---|
| Inuvialuit地域 | Inuvialuktun |
| Nunavut | Inuktitut、Inuinnaqtun |
| Nunavik | Inuktitut |
| Nunatsiavut | Inuttitut |
| グリーンランド | Kalaallisutなど |
カナダでは、これらのイヌイット諸語を包括する名称として「Inuktut」が使われています。
確認資料:Inuit Tapiriit Kanatami「Inuktut Language Initiatives」
文字
グリーンランド、アラスカ、カナダ西部などでは、主にラテン文字が使われています。
カナダ東部の一部では、ᐃᓄᒃᑎᑐᑦのような音節文字も使用されています。
地域によって文字体系と綴り方が異なり、カナダのInuit Nunangatだけでも複数の表記体系があります。
2019年には、地域を越えて文章を共有しやすくするため、ラテン文字を基礎とする統一表記Inuktut QaliujaaqpaitがInuit Tapiriit Kanatamiによって採択されました。これは既存の地域表記を廃止するものではなく、補助的に使用される表記です。
Inuit・Inuk・Inuuk
| 表記 | 意味 |
| Inuk | 一人 |
|---|---|
| Inuuk | 二人 |
| Inuit | 三人以上/人々 |
英語では「Inuit People」という表現も広く使われていますが、Inuitという言葉自体がすでに複数の「人々」を意味しています。
一語の中に多くの情報を組み込む言語
イヌイット諸語は、複統合的言語と呼ばれる特徴を持っています。
一つの語幹に複数の接辞を加えることで、主語、目的語、時制、否定、話し手の判断など、多くの情報を一語の中に表せます。
そのため、英語や日本語では一つの文になる内容が、イヌイット諸語では一つの長い単語として表されることがあります。
「雪を表す言葉が何百もある」という説
イヌイットの言語には、雪や氷の状態を細かく表す語彙があります。
しかし、「イヌイット語には雪を表す言葉が50個ある」「100個ある」といった固定された数字は、言語や方言、単語の数え方を無視した説明です。
イヌイット諸語は接辞を組み合わせて新しい語を作れるため、何を一つの単語として数えるかによって数字が変わります。また、雪だけでなく、海氷、吹雪、雪面、氷の厚さなど、関連する現象を含めるかどうかでも結果が異なります。
雪と氷について豊かな専門語彙が存在することは事実ですが、イヌイット諸語全体に共通する固定の単語数はありません。
確認資料:Alaska Native Language Center「Inuit Snow Terms」
言語の継承
言語の状況は地域によって大きく異なります。
グリーンランドではKalaallisutが広く使用されています。一方、アラスカやカナダの一部では、英語への移行によって若い世代の話者が減少している地域もあります。
現在は、学校教育、辞書、ラジオ、テレビ、映画、デジタル教材、言語アプリ、地域の文化活動などを通して、言語の維持と復興が進められています。
伝統的な遊び・競技
Ajagaq
Ajagaqは、骨、木、角などで作られた穴のある部品と、ひもでつながれた棒を使う遊びです。
部品を空中に投げ、棒を穴へ通します。日本のけん玉やカップ・アンド・ボールに似ていますが、形や穴の数、遊び方は地域によって異なります。
確認資料:Smithsonian Institution「Ajagaq」
Ajaraaqとひも遊び
輪にしたひもを指に掛け、動物、人、道具などの形を作るひも遊びも行われてきました。
形には物語や名称があり、手先の技術だけでなく、言語や口承文化を伝える役割も持っていました。
地域によっては、このひも遊びをAjaraaqと呼びます。
ワンフット・ハイキック
ワンフット・ハイキックは、空中に吊るされた標的を片足で蹴り、蹴った方の足で着地する競技です。
跳躍力だけでなく、バランスと身体制御が求められます。一部の地域では、狩りの成功を遠方へ知らせる動作と関係していたと伝えられています。
ツーフット・ハイキック
ツーフット・ハイキックでは、両足で跳び上がって標的に触れ、両足で着地します。
現在はワンフット・ハイキックとともに、Arctic Winter Gamesなどで行われています。
Knuckle Hop
Knuckle Hopでは、拳とつま先を床につけた姿勢を保ち、前方へ跳びながら移動します。
筋力、持久力、精神的な集中力が必要な競技です。
これらのアークティック・スポーツには、イヌイットだけでなく、Inuvialuit、Iñupiat、Yupikなど北方の複数の先住民族に共有されている競技もあります。
確認資料:Inuvialuit Regional Corporation「Inuvialuit Games」
Katajjaq
Katajjaqは、カナダのNunavikなどに伝わる喉歌です。
通常は二人の女性が向かい合い、呼吸音や声を交互に組み合わせてリズムを作ります。動物、風、水、日常の作業などの音が取り入れられることもあります。
伝統的には遊びや競い合いとして行われ、どちらかが息を続けられなくなったり、笑ったりすると終わります。
現在は文化祭や音楽作品、舞台公演でも演じられています。
確認資料:Avataq Cultural Institute「Katajjaq」
Introduction video
現代のイヌイット
現在のイヌイット社会には、狩猟や漁、縫製、犬ぞり、口承文化を継承する人々がいる一方、教師、医師、芸術家、映画監督、研究者、政治家、技術者として活動する人々もいます。
伝統的な知識と、GPS、衛星画像、海氷センサー、スマートフォンなどの現代技術を組み合わせた取り組みも行われています。
北極圏では、海氷が薄くなる、凍結時期が遅くなる、永久凍土が融解するなど、気候変動による影響が現れています。これは移動の安全、住宅、食料、文化活動にも関係する問題です。
一方、イヌイットの人々は変化の影響を受けるだけの存在ではありません。地域の知識と科学技術を組み合わせ、海氷の観測、環境保護、食料システム、言語教育などに主体的に取り組んでいます。
確認資料:Inuit Tapiriit Kanatami「National Inuit Climate Change Strategy」
イヌイット文化は、雪の家、犬ぞり、防寒着だけで説明できるものではありません。
陸、海、氷、動物、家族、言語、芸術、地域社会との関係を基礎としながら、現在も変化し続ける生きた文化です。